2012年3月17日土曜日

Scriptus Ante-scriptus - Linguistics ?

山口(2010)『ん』からはじめる思ひめぐらし: (1) はじめに

この2月——だから そんなに 対論として 意味の ある 記事には ならないのだが、しかし あへて——に:

  • 山口謡司(2010)『ん: 日本語最後の謎に挑む』新潮社

が 出版された。著者の 前著、

  • 山口謡司(2007)『日本語の奇跡: 〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』新潮社

の 悪評の たかさに 問題の 前著は 読んでゐなかったのだが 本著も また べつの いみで 期待できた。

なにぶん 著者の 書いたものは はじめてで あったが 一読 品の わるさに こっちが はづかしくなる 思ひを した。あとがきに 云ひて 曰く:

日本語には、なぜ「ん(ン)」で始まる言葉はないのか、と質問されたことがある。

しかし、じつは、世界の言語に目を広げても「ん」という発音で始まる言葉はさほど多くはないのである。思いつくままに挙げれば、たとえば、アフリカ、チャド共和国の首都名「N'Djamena」は日本語では「ン・ジャメナ」と表記される。また、チベット語には「'ngaa(ンガア)」が「早い」、「nga(ンガ)」が「私」を意味するような言葉があり、中国語の方言のひとつである広東語でも「ngo(ンゴ)」(「私」)などの言葉がある。さらに、広東語では「呉」という漢字は「Ng(ン)」と発音される。だが、これらの言語にも、「ン」で始まる言葉は少なく、ヨーロッパの諸言語にいたっては「ン(n)」で始まる言葉はまったくない。世界中の言語でも絶対数から言えば、日本語同様、「ン」で始まる言葉の数は非常に少ないのである� ��

では、なぜ少ないかと言うと、「ン」は、喉の奥で止めて出される音で、人が出す音としては不自然だからである。チベット語にしても広東語にしても「n」を確定するための「g」という音が次について現れるのはそのためである。つまり、単独で「ン」だけが存在するような言葉は、やはり、基本的にはないと言えよう。

山口 (2010, pp. 187-88)


別の言語で風に言ってどのように

「ん」は 著者の おほぶろしきに 反して 日本語にしか ない。これは すこし かんがへれば 分りさうな もので、音と いふのは ひとつひとつの 言語において おのおのの 成り立ちが あるの だから——言語学に ふなれな かたは 五十音図が 日本語の すべての 音を 構造化して みせるのを 思ふと よい。すべての 言語は おのおの なかみの ちがふ 「五十音図」を 持ってゐるのである——日本語の 「ん」を あてはめられる 言語は なくて しかるべきこと なのだ。英語には 「あ」から はじまる ことばは ないし、もちろん 日本語に 英語の appleの aから はじまる ことばも ない。

では 著者が あると いふ 「ん」とは なにものか 問ふに、かなに つづったとき 「ん」が あることに よってゐるのは 明白である。これを あへて ラテン・アルファベットで 考へてみれば、日本語を ラテン・アルファベットで ふつうに つづったとき 紅いは akaiと 書くが、これを 見て 英語の appleの aを 見て おなじ aがあると 言ってゐる やうな もので あらう。ほかにも、英語の strikeには stと 母音のない 音連続が あるが かなの ままでは スと トと それぞれ ウと オを 補はなければ ならないことに あきらかなやうに、かなでは 音のありさまを 推し量れない 言語が ある。かなで 考へてゐては 議論に ならないのだ。

そのほかにも 著者の 論には 問題が おほい。そこで この 引用を 素材として いくつか 検討してみよう。

引用した あとがきで 著者は 「ん」で はじまる ことばを 持つ 言語を あげ そのやうな 言語は まれで(とは 明確に 書いて ゐないが さう 考へないと 筋が とほらない)ヨーロッパの言語には 皆無で、かつ そのやうな 言語にあっても 「ん」ではじまることばは まれな 現象だと したうへで それを 「ん」の 発音の ひとの 音としての 不自然な 性質に 求めてゐる。

著者の 議論の 当否は 措いて まづは 「ん」が あると される 言語の 諸相を 見てみよう。


フレーズは完全に考えることができます。

まづは 「ンジャメナ」である。「ん」で はじまると 有名な この 都市だが かならずしも ンと つづられるとは かぎらない。むしろ 辞書では ヌジャメナなどと する ほうが 多いやうで ある。そもそも この 都市は フランスが 占領して できた 砦に 発する 都市で ふるくは Fort-Lamyと 言ったが 初代 大統領 Tombalbayeの チャド化政策——とは いっても チャドで マイノリティたる サラ民族 出身の 大統領が 行った 政策で 公平な 「チャド化」など ありえず 「サラ化」で あったのだが——によって 1970年 Ndjamenaと されたので あった (Tompson, & Adolf, 1981, pp. 43-44)。Ndjamenaの 意味する ところや Tombalbayeの言語など じふぶんに 調べられなかったのだが、この つづりは 宗主国で あった フランスの つづりかたに 影響された もので かならずしも サラ語に 即した ものでは ないので あらう、現代の サラ語に ndjといふ 表記連続は ない。サラ語の 一方言で ある Mbay方言において 前鼻音を 伴ふ 閉鎖音が よっつ ある なかに /nj/ [ⁿdʒ]が あって ンジャメナの ンジャとは この 音だと 考へておく (Keegan, 1997, pp. 1-2)。そのほかの 前鼻音閉鎖は /mb/ [ᵐb], /nd/ [ⁿd], /ng/ [ŋ(g)]で、これらは 鼻音 /n/ [n], /m/ [m]と 区別され (Keegan, 1997, p. 2)、聞こえるか 聞こえないか ていどの もので あるが かなで 書いて 日本語ふうに 考へると 「ん」で はじまる ことに なってしまふのである。

ついで チベット語を 考へる。著者は 「'ngaa(ンガア)」と 「nga(ンガ)」と 書くが これは /ŋaː/ [ŋaː]と /ŋa/ [ŋa] の ことで あらう。北村・長野 (1990, pp. v-xiv) 参照。/ŋaː/の つづり字に 'が あるのは 声調 記号を 残した ものと 考へておく。なぜ /ŋa/には 残さなかったのか 明らかでは ない(なほ ここでは 表記の 都合で 省略した。それぞれ53, 13である)。チベット語における /ŋ/は サラ語のやうに /ng/の 変異音として 現れるのでは なく 独立した 子音で ある。チベット語にも 前鼻音は 存在するが サラ語と 同様 それとは 区別される もので ある。チベット語の 鼻音には /ɲ/, /ŋ/, /n/, /m/の 4種類が 存在してゐる。チベット語の音節は CVCの 形式を 取りうるが、コーダのうち 鼻音は /m/, /ŋ/, /ɴ/に 限定され それぞれ 区別されるから 日本語と 様子が 違ふ ことが 分るだらう。


ただ何が帰結されますか?

つづいては 広東語を 見てみよう。広東語 広州方言では 呉は /ŋ/と 発音される(声調略)(Ming, 2005, p. 36)。鼻音 /m/, /n/, /ŋ/は いづれも オンセットにも コーダにも 出うるが なかでも /m̩/, /ŋ̩/は 単独で 音節を 形成しうる (Ming, 2005, p. 59-60)。広東語において これらが 混ぢる ことは ない。「n」を確定するための「g」という音が次について現れるといふ ことは これらの 言語の ことでは ないので ある。

著者は これらの 言語で 「ん」で はじまる ことばは すくないと 言ふ。著者によれば /ŋ/が 語頭に 立てば 「ん」が ある ことになる やうである。著者が ないと いふ ヨーロッパの 言語に ついては たしかに そのやうな 言語は ないやうだが ヨーロッパの 言語は おほく 似たやうな 音韻構造を してゐるため 人間の 言語の 性質を 考へるうへで ヨーロッパの 言語といふ くくりからは あまり よい 情報を 得られない。その 証拠に ヨーロッパにはない(この 件については インド・ヨーロッパ語族・セム語族・ハム語族はと 言っても よい)語頭の /ŋ/も たがひに 類縁関係に ない たとへば タイ語族と ニジェロ・コンゴ語族とに 共通して 見られる (Haspelmath, Dryer, Gil, & Comrie, 2005, pp. 42-45)。

語の かずが すくない ことも 不自然であるからとは かぎらない。日本語の 「つ」で はじまる ことばに つなみが あるが 英語には かかる 音で はじまる ことは まれで sunamiと 呼ばれると 言ふが、英語でも 「つ」の 子音は 現れうるので あり ここから 不自然さを 導きだすのには 無理が ある。北村・長野において なにから その語が はじまるかによって ページ数を かぞへた ところ 35項目 ある なかで /ŋ/で はじまる 語彙は 同率20位で /h/で はじまる 語彙や /w/で はじまる 語彙よりも 多かった。これは /h/や /w/が 不自然である 証左なのだらうか? さうでは あるまい。そもそも ひとが 現に 使ってゐる 音をして 不自然だ などと 評す 無礼さには あきれる ほか ないと 言へる。


著者が 不自然で あるからと する 「ん」から はじまる ことばが ないことは そもそも 日本語の 音のくみたてかたに 原因があって 「ん」の 発音の ありさまには ない。日本語の 音は 基本的に 子音と 母音の つらなりから なるが(はなしに 必要な 範囲で 子音とは 五十音図の ある行に 共通する 音であり 母音とは それと 組み合はせる あ・い・う・え・おのことと しておかう)、「ん」に かかはる 範囲では、 i. 同音の 母音、ii. 促音 または 撥音に かぎって うしろに つづくことが できるので ある。日本語に 「ん」が ない 理由は このやうな 日本語の できあがりに よってゐる。

そして はたして 「ん」は 不自然なのか。著者は 「ん」の 「喉の奥を止め」る 発音の ありさまが 不自然だと 言ふのだが、これは 「ん」の 発音の 説明として ただしくない。くわしくは 次回 以降に 述べるが、「ん」は 「喉の奥」を 止める 音では なく 鼻に 息を 通す 音と 言ふべきで ある。そして そのやうな 音が けして 不自然で ないのは な行・ま行を 出すのに また 英語の mや nが 鼻に 息を 通す 音である ことからも 分るだらう。著者が こだわる ngにしても すでに 用ゐる 言語が かなり 認められることは 示してあって とても 不自然なものとは 言へない。そして なによりも このやうに 「ん」の 不自然さを 論ふことより、むしろ いま してきたやうな 対照から 「ん」の 性質の 一面が 浮かびあがってくることを 見るべきで ある。

著者の 論法が ここに 取り上げただけで 済めば ともかく、徹頭徹尾 こんな ぐあひに 脈絡の ないものが つながっていって いちいち 批判するのも 手数で あるから、次回から あらためて 「ん」の性質や 歴史を 見ていかう。それが済んで なほ 言ふべきことが あれば 著者の 論の 見るべきところ あるいは 批判すべきところを 論じることと する。

諸言語は 直接 それを 学んだ わけでは なく また 日本語に 関する 記述も あやまりの 多いことを おそれる。つど ご指摘を いただければ 幸ひで ある。なほ 文献は 最後に 一括して 示す。



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