2012年4月23日月曜日

カテゴリー : リトアニア 世界のどこかで会いましょう♪


「世界一周269日目」

リトアニア第二の街、「カウナス」という場所に来た。

ここはリトアニアという国をネットで調べてたら知った街。
調べている内に、ここには絶対に行かないといけない場所。と感じた。

第二次世界大戦中の話。
ここリトアニア、カウナスに一人の日本人がいた。

「杉原千畝」

肩書きは、駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理

そして彼のもう一つの名前。

それは

「日本のシンドラー」

シンドラーとは映画「シンドラーのリスト」でも知られているオスカー・シンドラーのこと。
シンドラーは第二次世界大戦中、多くのユダヤ人を救ったことで有名。

そして、杉原千畝も多くのユダヤ人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた。

つい1週間前にアウシュビッツ収容所に行った。
そこでは150万もの人達が殺された。
その中でも勇気ある行動でユダヤ人を救った日本人。

その人のことをもっと知りたくなった。

第二次世界大戦中、ポーランドではナチスによる「ユダヤ人狩り」が激しくなった。
逃げ場(国)のないユダヤ人。
近隣のヨーロパ諸国も受け入れないという状況。

そこで彼らが考えたのが

ソ連、日本を経由して第三国に逃れるという方法。

しかし、それには多くの問題があった。

それは「ビザ」

彼らのルートは、ソ連に入り列車でウラジオストクまで移動、そして船で日本に上陸。

しかし、ソ連通過の条件は

・日本の通過ビザを持っていること
・必ず出国すること

だから彼らには何としてでも日本のビザが必要だった。

そして、ポーランドのすぐ北の国リトアニアには日本領事館がある。

1940年7月18日の早朝、彼らは杉原千畝のいる領事館の前にいた。


アボリジニの人々は(歴史)は、オーストラリアでどのように到着しました

杉原千畝は大きな声と、次第に激しくなっていく声で起きたという。
そしてカーテンを開けると、領事館の前の前にヨレヨレの服装をした老若男女の人々が100人くらい立っていたそう。

日本のビザを発行してくれというユダヤ人に杉原千畝は悩んだ。

なぜなら彼らは日本ビザ発給のための十分な条件を満たしていなかったから。
しかも彼らの多くはパスポートすら持っておらず、渡航費用も十分に持っていない者も多かった。

そして当時の日本はドイツとの間に日独防御協定というものを結んでおり、ビザを発給することでナチスドイツを刺激してしまう可能性があった。

しかし彼は日本の外務省に、「ビザを発給していいか。」という電報を送った。

外務省の答えはNO

「渡航条件を満たさない者には通過ビザといえどもビザを発給してはならない。」
ということだった。

しかし、彼は悩んで悩んだあげく、自国の命令に背きビザを発給することを決意した。

その時の彼の言葉

「私は考え込んでしまった。元々彼らは私にとって何のゆかりもない赤の他人。領事館のドアを封鎖し、ホテルにでも引揚げようと思えば、物理的には行動出来る。しかも本省に対し、従順であると褒められるだろう。私はこの回訓を受けた日、一晩中考えた。家族以外の相談相手は一人も手近にはいない。対ナチ協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から永遠の恨みまを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障を口実に、ビザを拒否してもかまわないというのか?それが果たして国益に叶うことだというのか?」

「苦慮の挙句、私はつ� �に人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に忠実にこれを実行したのです。」

そして彼は、休む間もなくビザを書き続けた。
手を痛めながら、1枚でも多く、一人でも多く、日々増え続けるユダヤ人のために。

そして1ヶ月後、杉原がいるリトアニアはソ連に強制され独立国を破棄。
領事館も閉鎖されることになった。


中国はどこにありますか?

彼は出国までの間、滞在先のホテルでもビザを書き続け、そして

リトアニアを出国する列車が発車するその時までビザを書き続けたそう。

そして最後の1枚を車窓から手渡し、その列車はカウナスを離れた。
ビザを求めて駅まで詰めかけた多くのユダヤ人を残して。

結果、彼の書いたビザは二千枚以上。
家族や子供を含むとビザを受け取ったのは6千人以上とされる。

ビザを受け取った彼らはソ連を抜ける際にも、秘密警察による強制捜査などで、逮捕されたり、途中で降ろされたりと様々な困難がつきまとった。
そしてウラジオストクに到着した時にはほとんどのユダヤ人が着の身着のままだったそう。

そして彼らは日本の福井県敦賀市にある敦賀港に辿り着いた。

様々な苦難,困難を乗り越えて着いた敦賀を彼らは

「敦賀の町が天国に見えた。」
「私達は何百年経とうと敦賀を忘れない。」

と語っている。

そして彼らはその後、第三国である上海、オーストラリア、アメリカ、そしてイスラエル等に行くことが出来た。

杉原記念館があるのはリトアニアのカウナス。
地図はここのHPに書いてあります。

ドアを開けると館長であるSimonasさんが笑顔で迎えてくれた。

着いた途端、

「DVD見るか?」
「お茶は飲むか?」

外はマイナス25℃、お茶がほんとに温かかった。

そして記念館の様子


人々がオーストラリアに移行する理由

杉原さん

杉原さんの出したビザによって第三国へ逃げることの出来た人達

実際に杉原さんがビザを書いていた机とビザ

また、最終受入国のビザに関しては、ユダヤ人に対して入国ビザを発給する国がほとんどない中、オランダの名誉領事だったヤン・ツバルテンディグという人がビザを発給したそう。

他にも多くの人達の手助けによって、日本の通過ビザが発給されたということを知った。

その後、杉原さんの行動が認知され評価されたのは、第二次世界対戦が終わって26年が経った後のこと。

1968年、「杉原ビザ」受給者の一人でイスラエルの参事官となっていたニシュリと28年ぶりに大使館で再会。
1969年には、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。
この時初めて、失職覚悟での杉原の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕したそう。
(それまでユダヤ人はビザ発給について、日本政府の意向によるものだと思っていたそうです。)

その後、1985年にイスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。

その間、日本政府の「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という千畝に対する敵意と冷淡さは、2000年10月10日の河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していたそう。

彼は命令を裏切ったから。

外務省のHPでも載っていた。


多くの人の命を救った杉原千畝さん。
当時は、国に背いて独断で行動することなんてあり得なかったことだと思う。
そして、ビザを発行するまでに悩んだ一日。
ほんとに様々なことが頭をよぎったと思う。
これからのこと、家族のこと、ユダヤ人のこと、国のこと。
そんな中、一日というほんとに短い時間の中で独断でビザを発給すると決めたことは、彼の信念によるものだと思う。

自分がもしその立場だったら同じ事が出来ただろうか。

リトアニアに行くことによって知ることの出来たこと。

ほんとに行けて、そして杉原千畝という人がいたことを知れて本当によかった。

日本には、杉原さんの故郷である岐阜県加茂郡八百津町にも記念館があるそうです。
世界一周から帰ったら絶対に行ってみようと思います。

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