2012年4月30日月曜日

ヒトラーの野望


1889年4月20日、オーストリア北部のブラウナウで生まれる。1907年、画家を志し、ウィーンの造形美術学校を受験するが失敗。母親が死に、天涯孤独の身になる。次の年も同じ所を受験し、失敗する。絵を売ったり、読書をしたり…、放浪生活を続ける。この頃のウィーンは反ユダヤ主義がトレンディで(よそ者のユダヤが経済的に成功し、力をつけてきた結果であった)、スチュアート・チェンバレンの著作をアドルフは読みふけるようになる。そして、当時の反ユダヤ主義の組織に入会したりもしている。

1913年、オーストリア・ハンガリー帝国の徴兵制を嫌い、ドイツ帝国のミュンヘンに移る。ここでも絵やポスターを書きながら芸術家、建築家を目指していた。 アドルフは既にアーリア人至上主義思想に傾倒しており、雑多な民族構成(特にユダヤ人を嫌った)のオーストリア軍に加わることを拒否したのだ。当時24歳。

1914年第一次欧州大戦が勃発。オーストリアの徴兵を忌避したアドルフだがバイエルン国王に手紙を書き、オーストリア国籍のままドイツ帝国陸軍に志願、第1バイエルン歩兵連隊に配属される。10月ヒトラーの連隊はベルギーのイープルでイギリス、ベルギー軍相手に前線に投入される、このときは第16予備歩兵連隊に配属されていた。ヒトラーは伝令兵として勇敢に戦闘に参加、伝令兵は砲撃で電話線が切断されると、塹壕を回って命令を伝える危険度の高い任務である。

12月第2級鉄十字章を受賞する。この鉄十字賞はどんなに政治的に力を持とうが、戦場で活躍しなけ� �ば絶対受賞されない名誉ある勲章で、後にドイツ将兵は皆これを欲しがった。ヒトラーもいつもこの勲章を身につけることになるのである。

ヒトラーは負傷しつつもその後も極めて勇敢に戦い、第1級鉄十字賞を授与される。これはヒトラーの階級、伍長クラスでは、異例中の異例であった。かなりヒトラーは勇敢に戦ったようである。

1918年、ドイツ帝国ではヴィルヘルム2世がクーデターで退位、敗戦。アドルフは病院のベッドで敗戦の報を聞く。

1919年6月ドイツに対し過酷な賠償と領土の割譲、軍備の制限を課したヴェルサイユ条約調印。退院したヒトラーはミュンヘン大学で政治理論などの速成教育を受け、復員兵へ共産主義が浸透するのを防ぐ政治教育を担当する。19年の秋ごろヒトラーは上官から当時多くあった小 政党の調査を命じられる。民主主義や社会主義などの「危険思想」を取り締まるためだった。アドルフはこの小政党のひとつ「ドイツ労働者党」(19年1月創設)の集会に参加して政治傾向を探ることにしたのである。


ドイツは、どの国を侵略した

ドイツ労働者党は当時党員50名程度のちっぽけな政治結社だったが、アドルフはここで「演説の才能」という天分を発見する。ヒトラーは調査のため入党したこの小政党で自身の才覚を生かせれば、政治目的の達成のために指導者となれるのではないかと考え、党の発展に力を注ぐことになる。敗北したドイツは帝政が崩壊し、混乱を極めていた。ヴェルサイユ条約で兵力は10万に制限され、参謀本部、空軍と1万トン以上の艦艇、潜水艦が禁止された。戦勝国による敗戦国いじめは当時から露骨だった。ドイツは大不況に陥り、失業者が溢れた。そんな中共産主義者とユダヤ人が背後から国を裏切ったため敗北したとする説が流れ、反ユダヤ主義はますます勢いを� ��し、野火のように広がった…。

アドルフのドイツ労働者党は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と改名し、アドルフの類稀なる演説の効果により勢力を拡大していく。演説中、極左集団の演説妨害は毎度のことであり、後にSA(突撃隊 Sturmabteilung)という私兵組織が編成される。アドルフはこの突撃隊にいわゆるナチ式敬礼を与える。右手を右斜め前にまっすぐに掲げる風変わりな敬礼である。更にこのころナチスの旗として有名な、ハーケンクロイツの紋章が党旗に規定される。これは古代ルーン文字で、太陽とアーリア人による1000年の繁栄を意味していた。この党旗は一目で、ナチスの存在を民衆の心に刻んだ。「ドイツよ、目覚めよ!」のスローガンで突撃隊は整然と行進を行い、アドルフは明快でわかりや� ��い、単純な演説で、反ユダヤ、労働者の待遇改善、中央政府批判などを繰り返し演説した。

ヒトラーは党首に就任。やがてミュンヘンにおいてNSDAPは知名度をあげてゆく。このころ幹部となるエルンスト・レーム、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、ルドルフ・ヘス、ヨセフ・ゲッベルスが党に参加してくる。22年になると党員は3万を擁するようになった。


ハーケンクロイツ


ナチ式敬礼

23年、ナチスはミュンヘンで州の実権を握ろうとして武装蜂起する(ミュンヘン一揆)。アドルフは自ら銃を持ってこの蜂起に参加するが、逮捕され、投獄される。


デラウェアフラグは、どのようなものですか?

 法廷でアドルフは自らの行為を認め、クーデターは国家を救うため愛国心から行ったものであると主張し、ベルリン中央政府を国民への裏切り者と激しく批判する。アドルフのぶった演説は裁判官や傍聴者の激しい共感を呼び、誰一人として静止する者はいなかった。判決は異常に軽く、禁固5年、アドルフはこの期間に著書「わが闘争(MeinKampf)」を口述筆記する。「わが闘争」は彼の目指す国家社会主義を集大成したもので、ユダヤ問題、共産主義、人種論を展開した。例えば人種論では人種を3つに分類し、文明を創造する「文化創造的」人種アーリア人(純粋なドイツ人)、「文化維持的」アーリア人との交流や刺激を受けて文明を維持� ��る(日本人はこれに分類された)、「文化破壊的」とくにユダヤ人。と主張した、よって優秀な民族が劣性な民族を屈服させることによって文明は発展する、とりわけユダヤ人の根絶はアーリア人にとって民族的義務であるとした。そしてドイツ民族の生存圏を東方へ拡大しなければならない。これらの思想はアドルフのウィーン時代の読書や大戦の経験から成立していったもので、終生つらぬき通される。

1924年執行猶予付きで早くも釈放される。アドルフはミュンヘン一揆の失敗を繰り返さぬよう、民主的な手段を用いて権力を掌握しようとした。その結果、28年の総選挙では12議席を獲得し、30年には107議席、32年には230議席を国会で獲得し、第一党に躍進する。その頃にはアドルフのナチ党は党員150万人のとてつもない巨大組織� ��なっていた。1928年12月、アドルフは自分のボディガード部隊の編成を命じ、後に親衛隊(SS、Schutz Staffel)として、突撃隊(SA)とは別の軍事組織として発展してゆく。1929年、世界大恐慌が起き、国民の生活は更に混乱し、とてつもない大不況におちいる。ナチ党は「全てのドイツ労働者に職とパンを」というわかりやすいスローガンで国民の心を掴んだのである。アドルフは33年遂に首相に任命され、34年には大統領も兼ねた総統に就任し、独裁的な権力を手にした。この背景では党の独自の戦闘組織である突撃隊と親衛隊の暗躍があった。対立勢力を次々と闇に屠ったと思われる。もちろんアドルフは国民に圧倒的な人気もあった。

ドイツの人気女優、マレーネ・ディートリッヒはこの当時のドイツの様子を知る一人である。

彼女はナチスに反発して単身祖国を脱出し、1930年、ハリウッドデビューを果たした人気女優 だった。1933年、休暇でドイツに立ち寄ろうとした際、船の中で彼女は初めてヒトラーの演説をラジオで耳にする。すると同乗していたドイツ人は急に熱狂し喝采を上げ、立ち上がると「ハイル!ヒトラー!」と声高に叫んだのである。ディートリッヒはいつの間にか様変わりした祖国に恐怖を感じ、途中立ち寄ったパリで下船した。


ここで、彼はワシントン記念塔です。


ヒトラーは紳士的な物腰を計算して演出し、女性人気がすごかった。

突撃隊粛清
長年ナチの暴力組織として暗躍した突撃隊だが、ヒトラーが政権を獲得すると失業者を吸収して250万人までに膨張し。突撃隊最高司令官エルンスト・レームはヒトラーと対等にモノを言うまでに権力を増大させていた。レームは突撃隊が国防軍に取って代わることを希望し、ヒトラーは突撃隊より国防軍を重視した。よってヒトラーは突撃隊を粛清することを決意する。レームに反乱の意志はなかったといわれているが、親衛隊保安諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒが謀略に参加し、レームの反乱をでっち上げる。かくして1934年、突撃隊の粛 清は執行され、エルンスト・レームは収容所で親衛隊テオドール・アイケに射殺された。この粛清で親衛隊は執行部隊としての役割を果たし、党内部で権力を増大させる。この後も黒い制服を身にまとい、ルーン文字の稲妻をかたどったSSの記章を襟につけ、親衛隊はヒトラーへ絶対の忠誠を誓いかつてない恐怖を世界中に撒き散らすことになる。この粛清は長いナイフの夜と呼ばれ、200名が殺害された。


親衛隊のグースステップ(行進)は大衆を魅了した


ラインハルト・ハイドリヒ

胎動
35年9月15日ユダヤ人の市民権を剥奪、ほとんどの職業から締め出しアーリア人との結婚を禁止した(アーリア人と1/4より血が濃いユダヤ人との結婚を禁止)「ニュルンベルク法」を布告。36年3月7日ヒトラーはロカルノ条約による非武装地帯ラインラントに進駐、軍部は反対したがイタリアのエチオピア侵攻への国際連盟の弱腰からヒトラーは賭けに出る。もっとも内心ではフランスの攻撃を非常に恐れた。しかしフランスや各国は非難を決議したものの進駐を黙認した。ヒトラーの国民への威信は大いに上がった。8月1日ベルリンで第11回オリンピックを開催、国家元首であるヒトラーが開会を宣言。計算された演出はナチスの絶好の宣伝となった。テレビ中継、聖火リレーを世界ではじめて実行した。


1936年、スペインで共和国政府(反ファシズム)に対するクーデターが勃発。首謀者はフランコ将軍で、ナチスとイタリアはこれを援助。対する共和国政府はソ連を味方につけ、代理戦争の様相を呈する。フランコは苦戦しつつも共和国政府を追放、以後75年に死ぬまでスペインを独裁統治した。ちなみにピカソのゲルニカで描かれた爆撃はこの内紛で起こった。編成したてのドイツ空軍精鋭部隊「コンドル軍団」による無差別都市空爆で、住民の20パーセント以上が死滅した。
 1937年、日独防共協定にイタリアも加わり、日独伊三国防共協定となる。共産主義国際組織コミンテルンに対する警戒を強めた。

 1938年、ヒトラーは国防大臣をスキャンダルで失脚させ、念願の国防軍を遂 に手中に収める。ヒトラーは自ら国防軍最高司令官となり、その年の内にオーストリアへ進駐。元々同じ民族のオーストリアは両国民の99パーセントの支持を得てドイツ帝国へ併合された。もちろん恫喝による投票率である。

 次のヒトラーの目標はチェコスロバキアのズテーテン地方である。同地方には、第一次欧州大戦のオーストリアとドイツの敗戦で取り残された、ドイツ民族350万人が生活していた。ゲッペルス宣伝大臣はこれらのドイツ人が虐待を受けていると盛んに宣伝、世論を煽る。チェコスロバキアはしっかりとした要塞と国防軍を保有しており、ナチスが侵略してくれば英仏の後ろ盾を得てやる気満々であった。戦争は避けられないとなった時に、時のイギリス首相チェンバレンは平和的解決を模索し、これを最後と� ��う約束でズテーテン地方を生贄にナチスの要求をのみ、戦争を回避した。しかしこの宥和政策は戦争への時間稼ぎをしたにすぎず、結局ヒトラーの野望を増長させる結果となった。

 チェコは英仏の後ろ盾がなければナチスと戦っても勝ち目がない。産業の中心だったズテーテン地方を失う。

 残るドイツ旧領土はポーランドである。38年10月独外相はポーランド外相にダンチヒの返還を求める。ポーランドはチェコの例を見ておりイギリス、フランスとの同盟を盾に要求を断固拒否する。39年4月ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄、同日にイギリスとの海軍条約(イギリスの海軍力の35%の艦船、45%の潜水艦の保有をドイツに認める条約)をも破棄する。ヒトラーはチェコの時と同じくポーランドを攻撃しても英仏は介 入しないと見ていた。しかしソ連の出方は予想できなかった。ナチスにとってソ連は宿敵である。しかし今は両面作戦となるソ連との戦争は避けたかった、ヒトラーは外相にスターリンへの親書を持たせモスクワへ派遣する。スターリンにしてみても、自ら30年代後半から行った赤軍の大粛正の結果、軍隊が弱体化しドイツと戦う力は無かった。それならソ連にも勢力圏の取り分を認めるヒトラーと今は組んでおくべきだと判断した。


 8月23日モスクワで独ソは10年間の不可侵条約に調印する。この宿敵と見られていた両国の提携は西側諸国に衝撃を与えた。

 この直後の9月1日、ドイツ軍は陸と空からポーランドへ殺到する。第二次欧州大戦の始まりである。



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