2012年4月21日土曜日

フランスから見た第二次世界大戦を、三十年戦争までさかのぼってみる | Drupal.cre.jp


 NHK-BSで放映された(未見)、シリーズ戦争と平和 よみがえる第二次世界大戦~カラー化された白黒フィルム~ をネタにしたチャットでの四方山話で、次のネタがでている。

ENOKINO フランスの視点から見た第二次世界大戦というのは、第一次世界大戦からの、というか、その前の普仏戦争当たりからの流れを知らないと

 なるほど。では、フランスから見た第二次世界大戦を、三十年戦争までさかのぼってみよう。

 フランス視点での第二次世界大戦というのは、どう見てもぱっとしない。
 負け戦という点では、イタリアもそうだ。日本もドイツも最後はボロ雑巾のようになって無条件降伏だ。ドイツは首都のベルリンがソ連に占領されて廃墟になるまで戦い、日本は本土爆撃で都市を焼け野原にされ、ソ連がついに牙をむき、おまけに広島と長崎に原爆を投下されるまで粘り続けた。
 しかし、フランスはボロ雑巾のようになる機会すらなかった。
 あからさまに言えば、フランスは「投げた」のである。不利になった戦争を最後までやる気力がもてず、途中であきらめたのだ。
 敗北を受け入れ占領される方が、終わりの見えない流血の苦しみよりは良い――これは、条件さえ整えばその通りである。日本だってドイツだって、そうして戦争を終わらせた。
 しかし、国民国家とは、国民あっての国家である。国民の多くが納得しないことは、たとえ独裁者であっても不可能だ。それが戦争を止めるということであっても、反対や不満を押して強行すれば、反動がくる。
 フランスの余力を残しての敗北は、ソ連や中国の不屈の戦いぶりに比べてあまりに潔すぎた。勝ち目のない戦争を続けるよりは、ドイツ占領下であっても平和になることを喜んだフランス国民は大勢いたろうが、納得できないフランス国民も大勢いた。彼らはレジスタンスに身を投じ、そして最終的には連合国の勝利とフランスの解放を勝ち取った。彼らとドイツの占領に協力した人々との確執は、戦後長く、現代まで傷跡を残している。人々は敵よりも身内の裏切り者にこそ、より憎悪とわだかまりを残すものなのだ。
 これは、レジスタンスを行ったフランス人が「正しかった」とか、敗北を決めたフランス政府が「間違っていた」という意味ではない。もちろん、後知恵で言えば何とでも言えるが、ようは納得できない人が大勢いることをやるならば、抵抗は覚悟しておけということだ。他人は他人の理屈と都合で動く。自分の理性や常識と相反するからといって、他人の理屈と都合が消えるわけではないのだ。

 けれど、第一次世界大戦までさかのぼれば、なぜフランスが途中で放り投げたのか、あるいはそもそも、なぜあそこまでやる気がなかったかの理由は、すぐに分かる。

 第一次世界大戦時のフランスの総人口4000万人。そのうちの2割にあたる860万人の男たちが兵士として動員された。大戦末期には社会が維持できなくなる寸前までの大動員である。青年期の若者は根こそぎ戦場に送られた計算になる。
 そして、その860万人の男たちのうち、6割強の560万人が死傷した。
 運良く死傷しなかった兵士も、映画『西部戦線異状なし』で知られる塹壕での陰鬱な日々の中、突撃をしかけては機関銃になぎ倒されていく戦友や、のどかな田園が月面もかくやのクレーターだらけになる風景を見たのである。
 三十代、四十代の働き盛りにある彼らが、「あの地獄に息子を送り込む気になれなかった」からといって、どうして責められようか。

 しかも、この第一次世界大戦、フランス側からしてみるととばっちり同然の形で始まっている。
 フランスにとっての第一次世界大戦は、ドイツ軍が怒濤のごとくベルギーを蹂躙して北フランスになだれ込んできたことで始まったが――
 そもそも、第一次世界大戦、「オーストリア皇太子が、セルビアのテロリストに暗殺されたこと」でスタートしている。
 オーストリア? セルビア?
 それがいったいなぜ、ドイツとフランスに?


ニュージャージー州では、ブラックライトのテストをライセンス供与していない

 オーストリア=ハンガリー帝国は老いたりとはいえ大国であり、セルビアとの軍事力には極端な差があった。勝ち目のないセルビアは、オーストリアに土下座して謝ることにしたのだが、大国オーストリアは、斜陽であるがゆえに、通り一辺倒の土下座では、傷ついた威信の回復が不可能だった。オーストリアは懲罰のために戦争を欲していたのである。
 セルビアはせめてもの抵抗の準備をしながら、兄貴分にあたるロシア帝国に援助を頼んだ。日露戦争で火傷したロシアは、本格的な戦争は望まなかったが、オーストリア同様に斜陽の大国にとって威信はおろそかにできない。国際政治の世界はヤクザの世界と同じで仁義と面子が大事だ。弟分を見捨てては、面子が失われてまずい。ロシアはあまり本気でないにしても、セルビアを助けるために軍を動員する。
 そしてここに、ドイツがからむ。血筋的にはオーストリアの分家のようなドイツだが、今や20世紀の大国として力は本家よりもでかい。気位だけは高い本家から頼まれれば、やはり仁義と面子から言っても、手助けは必要だ。これまた戦争する気はないが、ロシアを牽制するためにドイツも軍を動員する。

 これだけであれば、セルビアとオーストリア、ロシアとドイツの戦いなのだが、ここでこの時代の相互安全保障がおかしな作用をはじめる。この当時のヨーロッパ列強は、自国が不利な戦争に巻き込まれないために、入り組んだ同盟関係を結んでいた。ドイツはオーストリアやイタリアと。ロシアはフランスとイギリスと。互いに「もしどっかが攻めてきたら、一緒に戦おう」と約束していたのである。こうすれば、よほどのことがないかぎり、戦争にはならないだろうし、戦争になっても同盟国と一緒に有利に戦えるという計算である。

 ドイツとしてみれば、東のロシアと戦争になったあと、西のフランスや、最強の海軍国家であるイギリスに攻め込まれてしまえば、その時点で詰みである。かつてのドイツ帝国宰相ビスマルクは、そのような両面作戦をできるだけ避けるべく外交努力を重ねたが、そもそも彼の外交は敵失に頼るところが大きかった。おっちょこちょいのナポレオン3世ならともかく、その後のフランスやロシアはしごくまっとうな外交を行い、結果としてドイツは周囲を仮想敵国に囲まれていた。

 普通の国ならば戦争はあきらめ、捲土重来をはかるものだが、まだ誕生から半世紀しかたっていない――ドイツ建国は日本の明治維新と同じころである――若く活力に満ちたドイツは、あきらめなかった。彼らは、二正面作戦を乗り切る良い方法を考えついたのである。
 これがシュリーフェン計画だ。

[シュリーフェン計画]
1.戦争が始まるや、まず全力でフランスに攻め込む
2.その間、東のロシアでは機動力を生かして少数の兵で防衛する
3.フランスを叩きのめしたら、全軍をとってかえしてロシアと戦う
4.ロシアも倒して勝利する
5.このすべては、イギリスが本格的に介入をはじめる前に終わらせる。特にフランスは最初の8週でケリをつける

 もちろん、後知恵でいけば、これは甘すぎる計画であったし、当時においても疑問視する声は多かった。ドイツ軍内部にも、うまくいかない危険を指摘するものがいた。
 しかし、反対するなら対案を示せというのが仕事における基本ルールである。前提となる状況が悪すぎる場合、誰も対案が出せないので事態がより悪化することがままあるが、これもそのひとつだ。


世界の8つの人工の驚異は何ですか

 かくして、フランスにしてみると、何があったのかよく分からない連鎖が重なって、20代のふたりにひとりが死傷する大戦争に巻き込まれたのである。
 しかも、戦争がはじまった時には、フランス政府も、フランス人も、けっこうノリノリだったのが痛い。第一次世界大戦が始まったときには、参戦国はどこも、戦争は勝つにしろ負けるにしろあっというまに終わるだろうと考えていたのだ。
 大砲も機関銃も威力がどんどん増しているから、戦場でばんばん人が死に、負けた側はもう戦えなくなって戦争は終わるというわけである。
 これは結末をのぞけば、正しい予測であった。産業化が進んだ兵器の威力はすさまじいもので、一日の戦いで万単位の兵が死傷することもしばしばだった。
 機関銃をあまり持たないイギリス軍では、兵士を訓練で鍛えあげ、命中率も発射速度も桁違いの精鋭兵士を戦場に送り込んだ。彼らは一年もたたずに全滅した。
 優秀だろうがそうでなかろうが、兵士は等しく戦場で死んだ。昔の戦争では、英雄・豪傑は戦場ではなかなか死なぬものであった。武芸のワザはそのまま生存率につながった。しかし、銃弾は武芸とは無縁である。銃弾が飛んでくれば、よける方法はない。近くで大砲の弾が炸裂すれば、死ぬ。
 これは英雄・豪傑の価値が下がったとも、雑兵の価値が上がったともいえる。雑兵でも戦場にいれば何とかなるわけで、負けたくなければ、若者を戦場へ送ればいい。

 そして、どの国も負けない方法がある以上、負けるわけにはいかなくなってしまう。もしもこれが小国同士の戦争であれば、事前の予測通り、戦場で兵士がばんばん死んでしまえば、それ以上は戦えなくなって戦争が終わったかもしれない。

 しかし、帝国主義を通して力をつけたヨーロッパ列強は、まさにその国力ゆえに、タフだった。兵士が何千、何万、何十万と戦場で死傷しても、何千、何万、何十万と若者を補充として送り込むことが可能だった。
 結果は「西部戦線も東部戦線も異状なし」である。西部戦線は塹壕戦なのでそれがより顕著にでたが、流動的だった東部戦線も、結果としては同じである。塹壕や機関銃、毒ガスがあったから停滞したのではない。前線で兵士が死んだ数、消費した弾薬の数を、後方から送り込んで補充できてしまえれば、塹壕があろうがなかろうが、戦争は手詰まりになってしまうのだ。

 そういうわけで、いろいろ誤解や勘違いが重なった結果、泥沼の戦争となったのが第一次世界大戦だった。終わってみれば、何のためにこんな戦争をしたのかと絶望的な気分になってしまうほど、最初の思惑からずれまくった戦争だった。

 もう二度とあのような悲惨な戦争はすまい。
 人々は決意した。フランス人は特に決意した。そしてフランスは、そのための全力を費やした。
 560万人のフランス人の若者を殺したドイツを、徹底的に痛めつけたのである。
 天文学的な賠償金を要求し、軍備は徹底的に削った。ドイツの工業地帯であるルール地方に軍隊を送り込むこともやった。
 ドイツを弱らせれば、少なくともドイツとの戦争にはなるまい。そのためにはドイツの弱体化につながることはなんでもやった。


母系何を意味している

 そしてそれが、結果としてナチスの躍進をまねいた。弱体化したドイツは、フランス人が望んだように、国内では小党が乱立して指導力を欠いた。国内での内輪の争いも激しかった。
 しかし、ドイツ人がそれを望んだわけではむろんない。経済的にも外交的にも追いつめられた状態であればこそ、強い指導力が求められる。国内の諸勢力がささいなことでいがみあい、争うのをみていれば、「何とか仲良くできないか」と思う。
 ナチスの過激なファシズム思想やユダヤ人差別が、ドイツ人の圧倒的多数の支持を得たわけではない。しかし、穏健な現実的な思想や政策では互いに足を引っ張り合う現状で、過激ではあるが、敵味方のはっきりして分かりやすいナチスが、国民の団結を訴えるヒトラーの姿勢が、より魅力的に見える環境を作る最大の手助けをしたのは、やはり他ならぬフランス人のドイツへの恐怖であったと言える。
 国を守る最低限の軍事力すら許さないヴェルサイユ体制は、当時の世界情勢ではあきらかに間違っており、やりすぎだった。その間違いにヒトラーはつけこみ、権力を握るや今度は反動的に軍備の増強を推し進めた。ドイツを痛めつけるそのためだけに、ドイツ人が多く住む地域を、他の国の領土にしたやり方も、民族自立の精神に反していた。だから、ヒトラーが権力を握るや、そのことを指摘して領土拡張を推し進めても、止めることができなかった。
 止めれば良かった、とは後になって関係者全員が思ったことである。ヒトラーが再軍備宣言をした時、ラインラントに進駐した時、オーストリアを併合した時、ズデーデン地方を要求した時、チェコスロバキアを解体した時――ざっと数えるだけで、介入のタイミングはこれだけある。他にももっとあるだろう。
 介入によって生じるちょっとした紛争と、数千か数万か、ひょっとしたら数十万人の死者、手に負えないドイツの混乱と政治の混迷と、ひょっとしたら共産革命と引き替えに、第二次世界大戦を食い止めることができたかもしれないのだ。
 そしてその、第二次世界大戦を食い止める代わりに、今よりも悪い未来を選ぶチャンスを逸したのは、戦争を何がなんでも回避しようとしたイギリスとフランスの思惑ゆえである。

 最終的に、ヒトラーのやり方はドイツを再び破滅に導いたが、そもそもヒトラーの過激なパフォーマンスを許す下地を作ったのは、フランスであり、イギリスだった。そのパフォーマンスにのって、ドイツと全面戦争するしか手がなくなるまで妥協を重ねたのも、イギリスとフランスだった。

 以上は善悪ではなく、ヒトラーの免罪でもない。単純に、やりすぎてしまえば反動がくるし、因果も巡るというだけだ。ヒトラーとナチスがいなければ、あるいは途中で止めれば、ドイツはもう少しぐだぐだしたかもしれない。大戦争にはつながらなかったかもしれない。だが、反動は必ずきたろう。共産主義が、その反動を利用したかもしれない。軍隊かもしれない。宗教勢力が動くことになった可能性だってある。これだけがんばっても、第二次世界大戦は十年遅れくらいでやはり発生し、世界のあちこちで核兵器が炸裂したかもしれない。

 しかし、未来がわからぬ以上、第一次世界大戦が終わったときのフランスに、ああする以外の方法があったとも思えない。そもそも未来がわかっていれば、第一次世界大戦をはじめるわけがないのだ。未来が読めなかったといって責めるのは、筋違いというものである。

 何しろ、ドイツ人がフランスにひどいことをしたのは、これが最初ではない。プロシアがドイツ帝国を建国するにあたり、宰相ビスマルクはフランスを痛めつける必要があり、外交手腕(むしろ詐術)を使って戦争に持ち込んでいた。
 これが普仏戦争である。
 マスコミまでも利用したビスマルクの詐術によってナポレオン3世のフランスはプロシアに宣戦布告させられてしまい、そしてボロ負けをした。『最後の授業』で有名なアルザス、ロレーヌ地方がドイツに奪われたのもこの時である。
 第一次世界大戦が起きた時に、普仏戦争の復讐の意味もこめて、フランスが熱心に戦ったのはそういう理由があった。


 だが、プロシアにしてみれば、何をいまさらであろう。普仏戦争当時のフランスの指導者ナポレオン3世の伯父、皇帝ナポレオンはヨーロッパ中を戦乱に巻き込み、プロシアも幾たびか苦杯をなめさせられている。
 ナポレオン率いる大陸軍(グラン・タルメ)は第一次、第二次世界大戦でその真価を発揮する徴兵大動員システムの最初の成功例であった。従来型の傭兵型常備軍を持つプロシアは、ナポレオン相手の敗北により軍制改革を推し進めることに成功した。そしてついには個人の才覚で軍を動かすナポレオンに対して、集団の頭脳を集めた参謀本部によって勝利する。
 ナポレオンを退位に追い込んだ諸国民戦争、そして普仏戦争におけるドイツ参謀本部と作戦計画の優秀さが、過信へとつながり、第一次世界大戦を引き起こす原因のひとつとなっているのだ。

 しかし、そのナポレオンが学んだのはプロシアの偉大なる軍人王フリードリヒ2世であるから因果というのはめぐるめぐる。
 勝ったから大王呼ばわりされてはいるものの、賭博師的な傾向も強いフリードリヒ2世は、誰もがプロシア敗北とみた七年戦争をしつこく戦って勝ち抜き、それまでドイツを構成するいくつもの勢力のひとつでしかなかったプロシアを、ドイツ最強の国家のひとつに育てあげた。フリードリヒ2世なくしては、後のプロシア主導のドイツ帝国建国もありえたかどうか疑わしい。

 ではなぜ、プロシアとフリードリヒ大王がそのような危険な賭けにでたのか? それは、ドイツがヨーロッパ中央に位置し、常に周囲の国々の影響や介入を受け続けたせいである。三十年戦争と神聖ローマ帝国の運命から学んだのだ。
 ヒトラーの台頭の理由のひとつは、ヴェルサイユ体制によるドイツへの英仏の過度の介入が原因であった。しかしそれは、20世紀になってはじまったことではない。ナポレオンも、強国プロシアがドイツを統一しないようにライン同盟というフランスを宗主国とする小国連合をフランスとプロシアの間に作っていた。
 ヨーロッパ中央に位置し、東はロシア、西はフランス、南はイタリアとつながっているドイツは、そこに強大な国ができてしまっては周辺の誰もが迷惑なのである。フリードリヒ大王の時代も、ドイツ人にとっては「国内問題」であることに、周囲の外国勢力はさんざん口を出し続けてきた。
 口だけならともかく、武力でちょっかいをかけられたことも多い。プロイセンが軍事大国と呼ばれたのは事実だが、そこまで育った背景には、やはり外国勢力の介入を最低限にするためには、自前の武力を保持せねばならぬという歴史的な理由がある。


 武力がなくとも話し合い、あるいは外交でどうにかならないか?
 それを目指したのがハプスブルク家のオーストリアであり、その前身とも言うべき神聖ローマ帝国だった。
 ヴォルテールをして、神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらないと呼ばしめたのが神聖ローマ帝国だ。
 古代ローマ帝国が中世の海に"溶解"(塩野七生さん的表現)した後は、ヨーロッパはどこも封建制度のネットワークに覆われることになるが、神聖ローマ帝国はまさにその中世のあり方がもっとも進化した形式と言える。
 神聖ローマ帝国は、ローマ帝国の後継者であった。(自称だが)
 そのローマ亡き後の中世における支配者層であるフランク人のカール大帝の後継者でもある。(自称だが)
 さらにはローマ亡き後の中世の精神的支柱であるローマ教皇の認可を受けた皇帝でもある。(途中から怪しくなったが)
 古代ローマ、中世フランク、そしてキリスト教。
 みっつの権威をひとつに集めたのが神聖ローマ帝国だ。権威こそは国の拠って立つ基盤である。こけおどしと言うなかれ。実力主義とは目に見えないし、人や時代によって評価が変わる不安定なものなのだ。90年代に日本の企業が相次ぎ導入した社員の実力をはかるための勤務評価制度がどれだけヒドイことになったかみても、実力主義を過信することの危険が分かるだろう。自分が何かをなすのに実力は必須だが、他人が納得するには実力だけでは足りないのである。
 その点で、権威とはこけおどしであるがゆえに、他人に納得させやすい。神聖ローマ帝国は神聖でもなければローマでもなく、帝国ですらないかもしれないこけおどし国家だが、それでもそのみっつの権威を集めたのは、やはり偉大なことなのである。ヨーロッパ中央部にあり、ちょっとしたことで混乱しやすい地理にあることを考えれば、権威重視の姿勢は無理のないことだ。
 だが、権威を重視する統治は、停滞を生む。
 神聖ローマ帝国は、その権威主義ゆえに、時代に取り残されることになる。また、ローマ教皇とカソリックを権威の柱としていたがゆえに、宗教改革が始まるや、新教を旗印とした諸侯とカソリック派の皇帝と諸侯の対立が戦乱の火種となってしまう。
 ドイツ全土を巻き込んだ、三十年戦争の勃発である。
 宗教対立が背景にあるこの戦争だが、その一方では皇帝の権威に反抗した諸侯の権力闘争でもあり、さらには自国の権益を求めてスウェーデンやフランスやイングランドやスペインがたびたび介入してきた。
 この三十年戦争は、最初の国際戦争と呼ばれるだけあって、実にぐだぐだと長く続いた。敵味方もさんざんいれかわり、変わらないことといえば、ドイツが戦場であり続けたことだけだ。
 最終的に疲れ果てた諸侯と皇帝はウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)を結び、各諸侯は帝国の旗の下で、ほぼ独立を果たすことになる。
 三十年戦争後半の主役であり、カソリックでありながら新教側としてたちふるまい、アルザス地方をドイツから奪ったのが誰あろう、フランスである。三十年戦争の結果、神聖ローマ帝国は事実上解体され、ドイツは小さな国家の集合体となった。西の隣国であるフランスとしてみれば、神聖ローマ帝国のハプスブルク家の力を弱体化させたことと合わせて、大成功である。
 このときの成功体験が、第一次世界大戦のあとのヴェルサイユ体制にも影響しているとみるのは、考えすぎだろうか。

 第二次世界大戦から三十年戦争までを駆け足でさかのぼってみたが、その時、その時の人々や国の判断には、ちゃんと過去に理由や原因、動機があることが分かる。
 現代のフランスが、ややもするとスタンドプレーで強面な行動にでるのも、第二次世界大戦で物わかりがよすぎた失敗を反省してのことだ。ヒトラーが政権を握った後であっても、初期に強気に出ていれば、あの悲惨な戦争は防げたかもしれない。そう思えばこそ、外交に波風たてたとしても、つい人権問題に口出ししてしまうのだろう。(なお、繰り返すが、その結果が十年後のより悲惨な第二次世界大戦である可能性を私は否定しない)

 戦争は悲惨である。争いはない方がいい。
 だからこそ、学ばねばならない。何が戦争を起こすのか。なぜ争いは止められないのか。

 第一次世界大戦の悲惨な体験から、断固として戦争回避を決意し、そのためにはどんなことでもやった第二次世界大戦前のフランスの行動とその影響からは、現代日本に住む我々が大いに学ぶべき点があると思う。

殿下執務室2.0 β1 から 水, 2009-08-19 00:34 受信



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