2012年4月27日金曜日

アステカ


アメリカの古代文明について
中央アメリカに最初にあらわれる文化はオルメカ文化で、前9世紀頃といわれています。オルメカの「王の顔」は直径3m推定40トンの石造です。オルメカ文化がもとになって前2世紀頃からメキシコ高原で発展したのがテオティワカン文明で、アステカ文明の1500年前といわれていて、大型石造建築「ピラミッド」などの遺跡が残されています。

ユカタン半島で生まれたのがマヤ文明(3世紀〜10世紀)。これもオルメカ文化の影響で成立したとされています。ここもピラミッドや石造りの神殿など巨大建築の遺跡が残されています。複雑なかたちをした絵文字が有り、すでに2/3が解読されています。マヤ文明は10世紀を境にして衰退して、ス� ��イン人が来たときには、マヤ人たちは巨大な建造物を造るような力を失っていました。マヤ文明は衰えたとはいっても、マヤ人はそれまでスペイン人が知っていた原住民とは全然違う高い文明を持っていました。そしてマヤ人の情報から"富める帝国"アステカ帝国の存在を知りました。


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メキシコ高原ではテオティワカン文明のあとトルテカ文明が引き続いて栄えました。いろいろな民族が興亡を繰り返しましたが、スペイン人が来たときに栄えていたのがアステカ帝国でした。アステカ帝国は、第11代皇帝モンテスマ2世の治世下で繁栄の絶頂にあり、支配地域の各王国に貢納義務を課していましたので各地からの産物が都に集められていました。都はテノチティトランでした。アステカ帝国の繁栄ぶりをしめしているテノチティトランはテスカカ湖の中に浮かぶ島にありました。島に渡るための堰堤が三本造られていて歩いて渡っていました。テスカカ湖は3000Ku琵琶湖の4.

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5倍もある人造湖だったといわれています。そこの島には400m四方の中央広場に45mの大ピラミッドがそびえ、神殿、祭壇など100以上が建ち並ぶ神域があり、運河や上水道がめぐらされた壮大な都が築かれて、20万人以上の人々が生活していました。当時の世界ではヨーロッパをもしのぐ最大級の都市でした。テノチティトラン内の北部には"トラテロルコ"市場があり、商品の種類ごとに整然と区分けされいて、ありとあらゆる品物が並べられて商われており、アステカの金細工もありました。1日6万人の市民で賑わっていたと伝えられています。そこへ供給される農産物はシナンパと呼ばれる、水路を張り巡らせた人口農地に水底の滋養に富んだ泥土を汲� �上げておこなう農法で、豊かな実りが生産されていました。この農法は現在もソチミルコ地方に残っているそうです。初めてテノティチトランを見たスペイン人はその壮麗さに驚いたといわれていますが、アステカ帝国はスペイン人によって滅ぼされ、テノチティトランも破壊されました。現在では湖はなくなってしまって、テノチティトランの上にコルテスが再建したメキシコの首府メキシコシティがあります。アステカは自らを「神に選ばれた民」を意味する「メシカ」と称していましたが、それがメキシコの語源となりました。


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南アメリカ・アンデス高原にはメキシコとは無関係に独自の文化が発展しました。前10世紀にはチャビン文化が誕生しました。7世紀にアンデス高原一帯に都市を建設したのがティアワナコ文明。トウモロコシやジャガイモを栽培し、家畜はアルパカやリャマを飼育していました。この文化をうけて15世紀に成立したのがインカ帝国。首都クスコを中心にして道路網を整備し中央集権的な国家を建設していました。クスコの町に今も残っている石積みの壁は全然隙間がなくてカミソリの刃一枚通らないといわれています。そういう高度な石造建築が残っています。このインカには文字がありませんでした。ただ、文字の代わりにキープと呼ばれる記録方� �がありました。キープは「結縄」と訳されています。縄を結んでコマをつくり、その結び目の形や数で数字をあらわし、税の徴収を記録するために使われたといわれています。


メキシコ高原のマヤとアステカはオルメカ文化の流れをくんでいますが、お互いには直接の交流はありませんでした。これらの文明とアンデスのインカ文明は、基本的には孤立していました。高度な石造建築術や複雑な暦法をあみだしていましたが、金属器は、金、銀、青銅の利用で、鉄器はありませんでした。また、車輪を知りませんでした。回転するという技術を利用しなかったようです。動物では馬がいなかったので当然ですが騎馬を知らない。だから、マヤ人はスペイン人が騎馬で来たときに、それを人馬一体の一つの動物だと思ったといいます。鉄器も持たず馬に乗ることもないアメリカ先住民がスペイン人が来たときに簡単に征服されてしまったのはある意味では当然といわれて� ��ます。石器時代(古代)と鉄砲時代(近世)の戦いだったわけですね。


アメリカ大陸原産の農作物では、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、唐辛子が有名です。トウモロコシやジャガイモは旧大陸にもたらされて、あっという間に世界中に広がりました。特にジャガイモは寒くてやせた土地でも収穫できたので、世界中でどれだけ多くの人を飢餓から救ったかわかりません。唐辛子がアメリカ原産でコロンブスがアメリカに行ったのが1492年、その百年後、戦国時代を統一した豊臣秀吉の朝鮮出兵、日本が朝鮮半島に攻め込みました。この時に日本軍が朝鮮にもたらしたのが唐辛子だといわれています。それまで「キムチ」には唐辛子は入っていなかったのだ!



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